常光寺ギャラリー

『阿弥陀如来立像 朝日町指定文化財(昭和42年12月5日指定)』

常光寺のこの阿弥陀像は一位材を用い、像高36cmである。技法は中心体は一木で内刳(うちぐり)はなく、両脇の袖部で立矧(は)ぎ彫成である。羅髪(らはつ)は刻み出しで、百毫は玉石を嵌(は)め込み、相好は温容にして印相は来迎印である。表面の漆箔(しっぱく)は積年のすすで尊厳の効果を一段と高めている。両手・両足は川迫の補作であるが端正な容姿と、衣文(えもん)等流麗にして浅く、一見藤原風を思わせるが、12世紀末に多く造られる定朝(じょうちょう)様式は、その良き作風が後世まで受けつがれていたことでもあり、この像もその様式・技法等からして室町初期頃の作と推定される。作者は不詳である。
 
 常光寺は文明年間(1469~1487)魚津鹿熊から各地に移居して、享保3年(1718)現在地に建立された。
 
 寺伝によれば、この像は昔から常光寺に伝承しているもので、いつ頃の時代か定かでないが、もと真言宗であったのを、真宗に改宗した折に、本尊として本山より納受したものであるという。
 

『伊東彦四郎墳墓 朝日町指定文化財(昭和41年5月25日指定)』

伊東家は、延享4年(1747)、彦四郎の祖父加兵衛の代に、藩から、現在の朝日町と入善町・宇奈月町の一部にあった60余町村の十村役(とむらやく)に任ぜられ、御用所を沼保において執務した。
 
 8代目彦四郎は祐寿(すけとし)といい、天明2年(1782)十村役となり、天明5年(1785)には、扶持高二十石の無組扶持人十村役に昇格し、天保5年(1834)に世を去った。在任中は藩の方針に従い、養蚕を奨励し、舟見野台地開発のため、愛本用水を開発するなどに努力した。他方、文化人としても、竹堂等と号し、俳諧をよくしまた茶道も嗜んだ。
 
 墳墓は、東西役3.5mの墓城に、4段の石を積み上げた全高約90cmのもので、当時の権勢を物語っている。

『泊町屋敷絵図』

3部作 製作者は清原為芳氏。正確には新古文書。限定発行のためプレミアムNo.37とある。泊町南遷1170年記念にさいし自費発刊。
 
 石川県立図書館め特別の御好意よりこの絵図を復刻させて戴き、泊町南遷1170年記念号として発刊することが出来、併せて、大清水川の潟地より現在地に新屋敷替した当時の、享保年の「泊町新屋敷替絵図」、並びに文政年間の「泊町屋敷図下図」の古図3図揃いにし発刊した。
 
この3図の古絵図が泊町の旧地を物語る資料として、身近に閲覧、保存され、後世伝えられる事を願ってやみません。と製作者の清原為芳氏の書き添えがある。
 

『阿字観石』

長さ30cm。滑川市常光寺村より出土。
 
 滑川市常光寺部落の旧家で当時町内会長の川口兵衛氏前に地蔵堂がのこっており、その 一画が昔の常光寺の跡だという。そこの畑から真言宗で礼拝の対象になる「阿字観」という石仏が出土した。御堂に安置されたものか墓石か分らないが ここに寺のあったことは間違いなさそうである。
 
 常光寺は以前から滑川の常光寺部落に立山へお参りする人々を守る道しるべの一院をもち部落民の尊信を得ていたらしいが、落城の前後から世の乱れに無常を観し支配者としての仏教を離れて真の仏法として真宗に帰する為、滑川の一院を経て大聖寺へ移り法名や仏像を貰ったかと思われる。